春の日差しが段々と暖かくなって、爽やかな風が短く揃えたショートヘアの首筋をかすめる。高校2年生の生活が始まって、もう1ヶ月。来年には受験が控えているから、そうのんびりもできないけど、新しい教室はやっぱりどこか心が騒ぐ。
校門が近付いてくると、同じ高校の生徒が増えてきた。それと一緒に集まるのは、好奇の視線と黄色い悲鳴。ちっとも隠れていないのに、ヒソヒソと話す声を風が運んできた。
「え、誰!? めっちゃカッコイイんですけど!?」
「やだ、あんた知らないの? 2年の新堂 凛先輩だよ。王子様って呼ばれてるの。それも納得だよね。朝から目の保養だわ」
「スカートはいてる……って、え、女の人なの!?」
新入生と思われる2人組が騒いでいる。でも、これくらいは可愛い方。
校門を挟んだ向こうから、ひとりの女子生徒が駆けてくる。
「凛くん、おはよう! はぁ~、今日もかっこいい~。ね、これ、お弁当作ってきたんだ。一緒に食べよ?」
そう言いながら、腕にしな垂れかかってきたのはクラスメイトの眞鍋さん。ゆるく巻いたボブが揺れて、いかにも女の子らしい。その前髪に、小さなヘアクリップを見つけた。
(あ、デコ・ティアラの新作だ……いいな……でも、見つかったらお母さんがうるさいし、似合わない、か……)
私の視線に気付いたのか、眞鍋さんがすり寄ってくる。
「どうしたの? 私、何か変かな~」
あざとく前髪を見せつけながら、欲しがっているであろう言葉を口にした。
「うん、そのヘアピン可愛いね。よく似合ってるよ」
触れるか触れないか、ギリギリの所で髪を梳く。すると周囲から悲鳴が上がった。
「ずるい!!」
「なに、アイツ……」
「あ~……眞鍋だよ。同じクラスなのをいい事に、凜くんにべたべたなの」
「うわ……キモっ」
それをきっかけに、我先にと集まってくる。そこには先輩も、同級生も、後輩も、男も女も入り混じっていた。口々に賞賛の言葉を吐きながら、互いを牽制し合っている。
私はただ、それを受け入れるだけ。あまりにひどい人には注意するけど、それすらも『王子様』を助長させていく。
才色兼備、眉目秀麗、品行方正。
それが周囲の、私に対する評価だった。
だけど、私はそんなにいい子じゃない。嫌われたくないから、演じているんだ。お母さんも、小さな頃から『王子様』を私に望んでいた。歌劇団の男役が好きなお母さんだから、私をそこに入れたいみたい。何度も何度も、DVDを観せながら『凛はこの人達と一緒に歌うんだよ』と繰り返していた。
それに従っている私も悪いと思う。反抗すればいいだけ、そう思われるだろう。でも、長年刷り込まれた習慣は簡単には抜けない。
今日もまた、張り付いた笑顔で1日が始まる。
はずだった。
「うわ~、すごい。本当に王子様だ~」
突然響いた声に、視線が集中した。そこにいたのは、柔らかい茶髪と、幼い面差しの男子生徒。周囲の空気が少し震えた気がした。
「おはよう。君は初めましてだよね。私は2年の新堂凛。君は?」
眞鍋さんがブレザーの裾を引くけど、私は意味が分からず首を傾げる。それに応えたのは、目の前に進み出た男子生徒だ。
「ボクは3年の瀬戸夕貴。凛ちゃんか~。よろしくね」
先生が授業を始めても、みんな集中できないでいるようだった。先生もそれを感じているのか、どうでもいい雑学ばかり話している。 噂を信じるなら、リスクを背負う覚悟も必要。 きっと、みんなそれぞれに考えるところがあったんじゃないだろうか。 それは嘘でも、本当でも、間違いだった時に『裏切られた』なんて言わないことだと、私は思った。 先輩の噂には何か理由がある。 それが私の考えであって、もし噂が真実だったとしても、それは信じた私の責任だ。先輩を責める権利なんてないし、先輩が私に応える義務もない。 まだ先輩に会ってから2日しか経っていない。なのに、信じるだなんていう方がおかしい。自分でもそう思うのだから、前から先輩を知っている人から見ればバカみたいなのかもしれない。 だけど、私は信じたい。 何がそうさせるのか、その理由を探すことが、私の存在意義に繋がる気さえしている。 今まで他人に口答えをしたことも無い私が、何故、先輩の悪口に過剰に反応したのか。『王子様』を求められ、素直に従ってきた私が。 窓の外に見える広場を眺めながら、想うのは先輩のことばかり。(そういえば、お昼一緒にって言ってたのに、ダメになっちゃったな……) ちらりと机にかけた鞄に目をやると、胸が締め付けられるような感覚を覚える。まだ涼しいとはいえ、陽射しは徐々に強くなってきた。半日常温で置かれていたお弁当は、さすがに食べられないだろう。お母さんにも悪い事をしてしまった。 教壇に視線を戻すと、先生が思いっきり趣味に走った話を、楽し気に語っている。先生が理科教諭を目指した、そのきっかけだそうだ。「DNAというのは
私の演説じみた話が終わると、先生がひょっこり顔を出す。それは担任でもあり、理科の担当教諭でもある江崎先生だった。 そこでハッとして時計を見ると、既に5時間目の時間に突入している。「す、すみません! 私、無我夢中で……」 慌てて席へ戻ろうとすると、先生は手で制して優しく微笑んでくれた。「いや、聞き惚れたよ。私もこの年になるまで、いろんな噂に翻弄されてきた。オイルショックはみんな知っているよね?」 先生は周囲にも目を向け、話を続ける。「最近も、米不足や増税なんかが連日テレビで報道されている。それに紛れて芸能人のスキャンダル、政治家の汚職、いろんな噂を耳にするだろう。それが悪いとは言わない。僕はただ、自分の考えを持って、自分自身で判断してほしいと思っているんだ。いい噂も、悪い噂もね」 みんなの視線が集中する中で、先生は淡々と語る。「それは学校でも同じだよ。眞鍋さんや瀬戸くんの噂は、職員室でもよく耳にするんだ。だけど、僕の知っている眞鍋さんは、少なくとも噂とは違う。新堂さんを追いかけるのは、ほどほどがいいとは思うけどね」 冗談めかして笑う先生は、いつもより頼もしく見えた。「瀬戸くんについても、僕個人としては新堂さんに賛成かな。もちろん、それを強要するつもりもないし、もしかしたら噂の方が本当なのかもしれない。だけどね、噂を信じるのなら、それ相応のリスクも覚悟が必要だよ」 それを聞く生徒の態度は様々だ。 俯く人、憤慨する人、聞き入る人。 私はじっと先生を見つめていた。眞鍋さんも同様だ。「人の噂も七十五日というだろう? 結局、その程度のものなんだよ。それでも、ただの
視線を周囲に向けたまま、私は更に続ける。「眞鍋さんも、先輩の噂が本当だって、自信を持って言える? 現場を見たりしたの?」 それは眞鍋さんだけに対する問いじゃない。勝手気ままに、無責任に噂を広げる人に対しての問いだ。 眞鍋さんの噂には、多分嫉妬や被害妄想が含まれている。1年の頃はどうか知らないけど、少なくとも2年になってからは私にずっとくっついていたんだから。それでも噂がやむことはなかった。 そして、噂は女子だけじゃなく、男子からのものも多い。これって相手にされなかった憂さ晴らしなんじゃないだろうか。そう感じていた。 だから正直に言う。「私思うんだ。もし眞鍋さんの噂が本当だったとしても、それって男子側にも責任があるんじゃないかって。例えアプローチされたとしても、本当に彼女が大事なら、他に目は移らないんじゃないかな。私、浮気する奴って大っ嫌いなんだよね」 剣道で鍛えた声量は、廊下にも十分届いているはずだ。「女子も、自分が振られた腹いせに言ってるとしか思えない人もいるよ。どれが事実かなんて、私には分からない。ただ無責任に他人を陥れようとするのに腹が立ったんだ。眞鍋さんが私を思って言ってくれているのは分かってる。だから、先輩のことも少し思いやってくれると嬉しいな」 そっと眞鍋さんの手を取り、瞳を見つめる。「噂ってさ、結局は関係ない人が流すものなんだよ。私は『王子様』なんて呼ばれてるけど、そんなんじゃない。ただの女子高生だよ。眞鍋さんが慕ってくれるのは嬉しい。だけど、クラスメイトとして接してくれると、もっと嬉しい」 そう言うと、眞鍋さんは瞳を潤ませ、遂には泣き出してしまった。その頭を撫でながら、ふとした疑問を投げかける。「それにしても……私、先輩の噂
先輩にお礼と別れを告げて、教室へと急ぐ。時計を見ればもう13時目前だ。走れば午後の授業に間に合う。 そう思って息せき切って戻ってみれば、教室の前は妙な静けさに包まれていた。通り過ぎる人達も声を潜め、チラチラと室内を覗いている。 その意味はドアを開いて分かった。 いつもは騒がしい昼休み、その隅に俯いた眞鍋さんが座っている。クラスメイト達は遠巻きにして、こそこそと呟き合っていた。 私は自分の行動の迂闊さと、影響力の大きさを思い知る。ただ学内で『王子様』と呼ばれているだけで、自分の発言が誰かを傷つけるなんて思ってもみなかった。 顔を上げ、意を決すると、ゆっくり眞鍋さんの元に足を向ける。周囲からは小さなざわめきが起き、視線が集中するのを感じた。それを無視して眞鍋さんの元に辿り着いても、彼女は俯いたままだ。 教室はしんと静まり返り、廊下から好奇の視線を感じた。 私はじっと眞鍋さんを見下ろし、口を開く。「みんなにも聞いてほしい」 真鍋さんの肩がびくりと跳ねる。 その声は、自分でも驚くほど教室に響いた。 みんなの意識が集中しているのを感じて、大きく深呼吸をする。今までだって、注目を浴びることは多かったけど、この空気感はそれとは全く別のものだ。 興味、嫌悪、ひがみ、哀れみ。 いろんな感情の渦の中で、眞鍋さんは午前中を過ごしたのかと思うといたたまれない。その原因はほかでもない、私だ。 後悔はしていない。先輩を悪く言われて、腹が立ったのは紛れもない事実だもの。それでも、眞鍋さんに対して取っていい行動ではなかったと、今なら分かる。「
榊の腕を引っ張ってアイツから離れると、小声でまくし立てた。「てめぇ、俺のことアイツに言ってみろ、ただじゃおかねぇからな!」 恫喝する俺にも榊は動じず、意味ありげに笑う。嫌な予感と、むかつきが同時に襲ってくる。 こいつは俺がサボるたびに、なんやかんやと口を出してきた。担任もとうに見放しているのに、新任の正義感なのかちょっかいをかけてきやがる。「ん~? 俺のことって何? 実は、学校一の問題児ってやつ?」 この……分かってるくせに、アイツの方をチラチラ見ながらニヤけやがって。俺が女を殴れないって知ってるから余計に質が悪い。あまり騒ぐとアイツに聞こえるし、こいつホントどうしてやろうか。 唸りながら動けない俺に、榊は意外そうな顔をする。「……あれ、なんかいつもと違うね。そんなにあの子には知られたくないの? 問題児って言ったって、あなたの場合はタイミングが悪いだけでしょう。停学の理由だって、カツアゲしてたのは他の生徒で、あなたは被害に遭った子を庇っただけ。そこをあなたに敵意を持つ担任が見つけたから、これ幸いと停学にしたんだし。新堂さんは、ちゃんとわかってくれると思うわよ?」 懇切丁寧に説明する榊に、俺はイラ立ってくる。 そんなことは分かっているんだ。別に褒められたい訳でも、感謝されたい訳でもない。俺が誰かを助けるたびに事実は歪められ、ありもしない罪を着せられる。 そして話はデカくなり、俺は意味もなく嫌がらせを受ける羽目になるんだ。 もうそれにも慣れた。 仲が良かった奴も離れて行って、今じゃ良からぬ輩の仲間入り。教室でも、いないものとして扱われる。休もうが出席しようが、成績は変わらず最下位だ。 親にも泣かれた。
先輩は膝の上で組んだ両手に力を込め、顔を上げる。その表情は、今までとどこか違っていた。「凜ちゃん……!」 そう言いかけた時、扉の開く音が響く。引きずるようなスリッパの音で、生徒ではないと分かった。その音は徐々に近付いてきて、サッとカーテンが開かれる。「ああ、起きたんだね新堂さん。ちょっと野次馬から事情を聴いてきたけど、頑張ったんだね。眞鍋さんの事は、教師の間でも問題視されてて……ん? 瀬戸くん、なんだか大人しいね。いつもの口汚さは……」「わーっ! ちょっと待て! あ、いや待って! 先生、ちょっとこっち!」 先輩は何故か慌てて先生の手を引いて、カーテンの向こうに消えていった。その様子に親しみを感じ、胸がチクリと痛む。(なんだろう……まただ) この感じは、先輩に出会って何度か経験している。でも、それはどれも違う場面で起きていた。 最初は先輩に初めて会った時。どこか他の人と違うものを感じて、心がざわついた。 昨日、昼休みに会った時も、可愛いと言ってくれたことが嬉しかったのを覚えている。 そして今日の早朝。ずぶ濡れの先輩の言葉が忘れられない。『誰もいない学校が好き』 その気持ちは、私にも分かった。今日のように日直で朝早く来た時の静けさは、いろんなしがらみから解放されるようで、すごく落ち着く。多分、先輩の言葉に共感したんだろう。 でも今は。 自分でも説明できないような、暗い気持ちが渦巻いている。眞鍋さんに感じたものとも違う、先生が羨ましいような、妬ましいような、そんな感覚だ。 先輩が握った手は華奢で、女性の柔らかさがあっ